生糸の製造を手がける吉村家の末子として誕生する。養蚕業を営む商家で育った影響もあり、独立心旺盛で進取の精神に富んだ子供として育った。当時、家督は長子相続のため、自ら業を起こすように進められた秀雄は、十代から灘の酒蔵で奉公を始めた。
第一次大戦、そして第二次大戦という二度の大戦と、敗戦後の激動の中で、日本は困難な時代を迎えるが、秀雄が志した酒は、どのような時であれ、どのような人にでも、楽しみと幸せをもたらしたのではないか。
1915年
生糸の製造を手がける吉村家の末子として誕生。日本が世界を視野に動き出す激動の時代が幕あけるこの1915年。。十代から灘の蔵で奉公を始めた若者が、年期があけて地元に帰り、『誰もが酒を飲めるように。酒とともに、人は明るく楽しく、皆幸せを感じられるように』と和歌山にて酒造業を興す。第一次大戦、そして第二次大戦、そして敗戦と、日本は困難な時代を迎えるが、秀雄が志した酒は、どのような時であれ、どのような人にでも、幸せをもたらすことができたのではないか。まさに時代の要請に答えるべく一つの志のもと酒造りを始めたのであった。
1923年
灘の西郷と今津郷で酒造りを開始
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酒造りの酒都であり、酒造りを奉公にて学んだ地“灘”にて、さらに造りを学ぶために当地に製造場所を確保、進出する。
1925年
酒質の向上、技術の取得に一定の目処がついたため、一つの区切りとして灘での酒造りを終了する。
1928年
毎年のように国税局鑑定官の技術指導を受ける
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昭和2酒造年度より大阪税務監督局は鑑定部の技術官を派遣し、酒造技術の理論と実態の解明のために、酒造期間中の延べ約一ヶ月間にわたる滞在指導と、巡回指導を行った。弊社は昭和9酒造年度には、後藤秀三指導技術官に指導を受け、昭和10酒造年度には、三田村技師の指導を受け、昭和11酒造年度には相良長武指導技官の指導を受け酒質の向上を常に目指した。
1930年
『酒倉行事鑑評会』第二等に選ばれる
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伊都郡杜氏研究会が『酒蔵行事鑑評会』と称し、酒蔵内の環境整備と検査、作業の実業を評価し、杜氏以下の表彰を行った。杜氏の向保太郎他28名の蔵人の取組が評価され見事第二等に選ばれた。
1933年
低温蔵は、一般の酒蔵の条件より、さらに低温にする為に考えられた特別貯蔵庫であった。昭和8年頃、吉村秀雄商店の西蔵に低温貯蔵庫が設備された。その構造物の発想は非常に珍しく、自然の冷気を活用する地下室であった。一階床面を60センチメートル程度高くして、地下室の天井を大蔵一階の地窓の上に取付、いわゆる地下室の天窓とし、冷気が導入された。地下室は鉄筋コンクリートで表面をアスファルト防水仕上げとし、当時はまだ珍しい琺瑯タンクを四十本も囲ったのである。
1937年
木桶の欠点とする木香と容量の欠減を一挙に解決する為、貯蔵用木桶全部を琺瑯タンクに交換した
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清酒の貯蔵容器は、ほとんど木桶が使用されていたが、錫引胴タンクが大正中期に普及し始めた。ところが昭和初期になると、軽合金製のアルミタンク(昭和3年)、琺瑯タンク(昭和5年)、ウルシ加工タンク(昭和9年)、さらに錫引銅板貼り付け加工の木桶(昭和9年)などの貯蔵容器が誕生し、容器革命となった。和歌山県の状況は、やや消極的であったが、昭和12年に、吉村秀雄商店が木桶の欠点とする木香と容量の欠減を一挙に解決する為、貯蔵用木桶全部を琺瑯タンクに交換した。他社に先駆けいち早く全量琺瑯タンクに移行した。
1939〜1942年
1943〜1945年
戦時中は、陸軍・海軍への納品が酒造組合中央会より示された。(昭和15〜19年)軍需酒は昭和18酒造年度には新酒の酒税を免税扱いとされた。
1944年
昭和18年の戦時企業整備計画により東蔵を閉鎖し休眠させ、西蔵のみでの単独操業を続けた。
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昭和14酒造年度の生産統制は、予想以上の緊迫した状況下にあり、基準石数の48%減醸を需給適正の為厳しく実施された。昭和14年には戦時下の米穀問題が次第に緊迫し、配給制下の酒造りにも生産制限として、前年の約半分減通告を受けた。酒造の安全第一、節米主義、精米歩合、火持ちを安全に酒質の改善を目指した。昭和18酒造年度に入り、国策と称し企業整備が強行された。
1945年
和歌山県和歌山市も昭和20年7月9日の深夜に大空襲を受けた。5社9つの蔵が被害を受けた。弊社も疎開指定を受け、「伊都郡広野村及び天野村の農業倉庫」という疎開先を示されていた。幸い弊社の蔵は、戦災を受けることなく結局疎開をすることはなかった。
1945年
敗戦直後の昭和19酒造年度には、第一級酒の認定が行われた。弊社は早速12月6日に出品し13日付で第一級酒の認定を受けた
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昭和18年4月の酒税法改正により呼称が明確化して第一級、第二級となった。第一回は撰をもらすも、翌19年の第二回には優等酒、20年度の第三回には特等酒に認定された。
1945年
敗戦直後の酒造りは、食糧政策の国内外ともに厳しい条件のもとに苦しい立場にあった。十九酒造年度に和歌山県にて酒造りをしていた杜氏で、戦後の占領下において、元の酒造場に復帰できたのは33名だけであった。弊社の向保太郎杜氏はその一人。
1949年
昭和24年5月酒税の改正で、新設された特級認定審査により、弊社は開始当初より特級認定を受けた。
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昭和24年5月酒税の改正で、新設された特級認定審査により、弊社は開始当初より特級認定を受けた。
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昭和24年5月酒税の改正で、清酒第一級・第二級の二段階性に対し特級を新設して三段階性として、一級・二級の減税をはかった。この24年度の第一回特級審査が、4月18・19日に東京滝野川の醸造試験場において審査され、弊社の酒は見事特級認定を受けた。(同年の特級認定は県内で3件のみ)同年の県内における特級酒生産石数の57%を弊社の酒が占めた。(217石)次年度以降は、特級認定蔵が大幅に増加したが、昭和25年は県内シェア6%。(33石)昭和26年は、県内シェア29%。(248石)昭和27年には、県内シェア13%。(102石)の特級酒を生産・販売した。特級酒の生産には、並々ならぬこだわりを持って取り組んだ。
1952年
再び灘へ進出を計画し、宮水地帯の専用井戸場を確保した。
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当時は、宮水の井戸がある土地と無い土地では天と地ほどの価値の違いがあった。全国より灘へ多くの蔵元が進出を目指した。その中で弊社は過去の「灘進出」経験も活かし、優良な井戸の確保に成功した。後日談になるがこの井戸は、阪神大震災の際に水が無くなる井戸が相次ぐ中でも、水枯れもなくよい水が湧いた。
1953年
和歌山県酒造組合連合会の結成準備に入り、会長には弊社社長吉村秀雄が就任。
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戦後の昭和28〜36酒造年度の生産統制期の困難な時期の会長を勤め上げた。
1955年
戦後の混乱期からの脱却と、弊社のさらなる飛躍を目指し改組した。
1957年
戦時下で酒造りを休止していた蔵の復活が徐々に認められ始めた。東蔵復活時の杜氏は坂本芳三郎が努めた。
1961年
和歌山県酒造組合連合会の会長として吉村秀雄が、三増酒への醸造アルコール使用量を削減するために酒造組合連合会で定めた使用量の上限を厳守するように中央会で厳しく追及した。
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戦後のあだ花として咲いた三増酒に使われるアルコール使用量を削減するために、酒造組合連合会は使用量の上限を定め厳守をするよう理解を求めた。同年、実績調査が内密に行われたところ、この中央会削減決議案を厳守した県は、和歌山県、愛知県の他5県だけであった。これについて和歌山県の酒造組合会長として吉村秀雄は、中央会で厳しく追及した。この調査は、対合成酒問題解決には、単に清酒純血論だけではほど遠いことを示した。吉村秀雄は酒の本来のあり方、旨さに対して徹底してこだわり続けた。
1962年
再び灘へ進出し西宮市東町に酒蔵・精米所・瓶詰場・事務所を新設した。
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戦後酒都を求めて蔵の県外進出と移籍が行われた。和歌山の地は、灘の蔵の酒が県内に送られてくるため、どうしても競争が激しくならざるをえなかった。当時は、『灘の酒でなければ酒でない』とも言われた時代で、時代の要請もあり、進出計画より10年の歳月を経て弊社の活路を見いだすための積極策として灘へ進出した。